ニュース観察

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日本のマスコミがいかに無能か

都議選の結果が安倍政権へのNoだという見解には同意しかねるが、日本のマスコミがいかに無能な馬鹿揃いであるか看破している点で素晴らしい記事。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

メディアへの圧力として注目を集めました。しかし、こういった政権からの圧力という構図は、世界的に見ればどこにでもある“普通のこと”です。

 

ケイ氏は来日した際、日本人のジャーナリスト数人に話を聞いたそうです。彼らは「自由に記事を書くことができない」と訴えたそうですが、「では、政権はどうやってメディアに圧力を加えているのか?」と突っ込んで問うと、返ってくるのは「具体的にどうというわけではないけど、空気がね」という答え。さらに「では、書いたらどうですか?」とケイ氏が言うと、「う~ん…でもね、書けないんだ」と。これは私にも非常によくわかります。

日本では“場の空気”を重んずる文化があります。しかし、その空気は権力の側だけで勝手に作れるものではなく、メディアが作るものでもあります。

 

メディアが空気に支配されてしまうのは非常に危険な状況です。だからといって私は、日本のメディアはもっと権力と対立するべきだと言っているわけではありません。むしろ日本の新聞は、その社のイデオロギーの箱に収められていて、例えば左派の新聞ならば、安倍政権が「シロ」と言えば反射的に「クロ」と反論してしまう傾向があるように思います。

 

例えば朝日新聞は左寄り、読売新聞は右寄りといったイデオロギー的なスタンスは明確なのに記事のインパクトが少ないようにも思います。各紙の社説を読んでも、結びが「もっと議論が必要だ」とか「説明責任を果たしていない」といった、どちら側のスタンスでも言える内容で終わっていることが多い。

 

「トランプ100のウソ」では、大統領の発言を引用した後に、それがウソである根拠をひとつひとつ示しました。もし読者が「これは違う」と思えば反論できるわけです。「もっと議論を」だけでは、反論も生まれません。

 

なぜ、こうなるかは簡単で、少なくとも日本のマスコミにおいては

  • イデオロギーに即した「大衆を扇動したい方向」があり
  • したがって記事は結論ありきのものしか存在せず
  • しかし、その結論を論理的に導く能力はないので
  • 根拠を示して反論上等で結論を提示することはせず
  • 「議論が必要」とか曖昧な言葉で誤魔化しつつ、大衆を扇動しようとする

ということですな。

失言の捏造

相も変わらず、マスコミは失言の捏造に日々勤しんでいるようだ

 

headlines.yahoo.co.jp

意見交換会には住民ら27人が参加し、北朝鮮によるミサイル攻撃への対応について質問が出た。田中委員長は「小さな原子炉に落とす精度が(北朝鮮のミサイルに)あるのかよく分からない」と述べた後、「私だったら東京のど真ん中に落とした方がよっぽど良いと思う」と発言した。直後に「今のは冗談」と付け加えた。

どこが失言だろうか? 見解の中身は妥当かどうかはともかく、見解の根拠は極めて真っ当でしかない。

 

問題は、「私だったら東京のど真ん中に落とした方がよっぽど良いと思う」の「良い」とは「誰にとって」なのかということだ。もちろん文脈からしたら「北朝鮮にとって」以外あり得ない。そして「良い」とは善悪ではなく「効果的か」という意味以外にもあり得ない。

 

原発が狙われるのではないか」という住民の不安に対して「小さな原子炉を狙う目標精度があるか不明」という観点を示した上で、「原子炉を狙うくらいであれば、東京のど真ん中に落とした方が、北朝鮮にとっては効果的であるはずだ」という見解を示したに過ぎない。その理由は「ミサイルの目標精度が低くても、目標が大きい分、成功確率が高く、かつ人口密度なども考えれば、北朝鮮にとって攻撃効果が大きいから」である。

 

「果たして本当に北朝鮮が同じように考えるか」という点で「中身が妥当か」には検証の余地はあるかもしれない。しかし、見解を導くうえでは何ら奇をてらった部分はなく、全く順当な考察である。

 

そして、こういう場では、あるいは、この方の立場においては、様々な観点からどういう「有事」が起こるのか想定して対策するのが大事なのであり、その想定を多くの人で共有することが有事の時に役立つ。

 

ごく順当な有事想定を述べただけで「失言だ」と騒ぐのは、有事に対して思考停止せよ言っているのと同じで、極めて愚かだ。そして、マスコミというのは、常に愚かである。

 

ちなみに、この記事も毎日新聞であることを付け加えておきたい。

もはや毎日新聞は反社会勢力であると言っても過言ではないのではないか。

もはやマスコミの報道は全て嘘と疑って裏取りが必要かも知れない(中村あや氏の敗戦の弁について)

前の「安倍自民が負けたのか」という記事の中で

news-watcher.hatenablog.com

当の自民都議からも「国政の人達のせいで負けた」みたいな声が聞こえる

 

自民都議団も「自分達が信用がないから負けた」というより「国政の人達のミスで負けた」ということにした方が気分がいいだろう。 

と書いた。

当然、その時には中村あや氏が敗戦の弁として

報道で取り上げられていたような内容も含めて、脇が皆様、甘いなというふうに思いますね。

人を罵倒したりだとか、お金の問題であるとか、恋愛含め人間関係の問題であるとか。人の前に立って、有権者の、国民の代表として出ている人たちが、普通に考えてやらないだろうというようなことを、やってしまっている

と述べたと。そしてマスコミが

宮根誠司氏は「自民党国会議員の方へ対しての恨み節ではないか」と指摘。「私たち、なんにも悪いことしていないのに、国会議員の人たちがありえないことをするから私たち落ちちゃったんじゃないの、ということでしょ?」などと述べた

というプロットで報道していたことも頭にあった。もちろん中村氏だけを想定していたのではないが。

 

ところが、本人の釈明を聞いたら何のことはない。ただの捏造偏向報道だったようだ。

abematimes.com

 

”今の国政どう思うか”という質問の答えの中で”...党問わず公人なら国民の代表者としての意識をもたなければならない。...脇が甘い”と言っただけで敗因を押し付けたりしていません。 

「落選してどう思うか」という質問の回答として「国政の人の脇が甘い」というのと「今の国政どう思うか」という質問の回答として「国政の人の脇が甘い」と回答するのとでは、意味するところは全くことなる。

私はマスコミに対してはかなり疑り深い方だと思うが、それでもすっかり騙されてしまった。

 

もちろんこの状況では、この中村あや氏自身の反論や、それを報ずるマスコミも、どこまで信用できるか分かったものではない。

 

もはや、マスコミから知らされる情報は、全て嘘であることを疑って、自ら裏取りをしなくてはならない時代なのかもしれない。

ロザン宇治原氏の慧眼(安倍総理の「こんな人たち」発言に寄せて)

昨日、当ブログで書いた趣旨のことを

news-watcher.hatenablog.com

 

ロザン宇治原氏がテレビで発信したようだ。

netgeek.biz

 

非常に素晴らしいことだ。

このように、キチンとフェアに物事を見て、発信する人が増えてくれることを祈りたい。

「マスコミが持って行きたい論調に、大衆を扇動する」という時代は、もう終わるべきだ。我々も扇動されない賢さを持たなくてはならない。

毎日新聞の劣化

毎日新聞の劣化がすさまじい。

基本的に私は右寄りな考えを持つ人間ではあるので(特に自民支持とかではないが)朝日新聞毎日新聞をはじめとする左派系マスコミの主張には共感できないことが多い。

 

ただ、その中でも毎日新聞には嫌悪感を感じてしまうのだ。

敵を定めると、曲解を駆使して敵の主張を捻じ曲げ、それを元に敵に侮辱や中傷を並べ、讒言を垂れ流しまくり、しかも自社の意見が一切の議論の余地のない真理であり、社会正義であるかのように断定し、敵を社会的に抹殺しようとする。

その流れは、もはやテロと言っても良い域だ。

 

その点、最近は朝日新聞の方が良識的にすら思える(笑)。

朝日新聞の主張には、彼らの理想とする社会を感じることが多い。その理想社会には共感できないにしても。嘘や捏造があるにしても、目指すのは理想社会の実現だ。その点、嘘や捏造の先の目的として、敵の抹殺が軸にある毎日新聞とは異なる。

 

あくまで傾向としての話であり、私の主観・感想に過ぎないレベルなので、あまり目くじらは立てないで欲しい。が、最近はYahooなどのトップに表示されるタイトルを見ただけで、ほぼ100%毎日新聞を当てられるようになったのだから、その特異性は確かにあると信ずる。

 

まぁ想えば、今日の産科崩壊・医療崩壊の原因を作ったネガティブキャンペーンを張ったのも毎日新聞だ。ということは、劣化したのではなく、そもそもそんなものだったのかもしれない。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

対立軸の矮小化と、安倍総理の「こんな人たち」

詭弁の一つの手法に「対立軸の矮小化・すり替え」というのがある。
例えばこうだ。

A「1+1=3だ」

B「それは違うぞ」

A「私のことが嫌いだからって、他人の言うことを否定するのはおかしい。もう少し他人の発言を受け入れる度量を持て」

あるいは、こうだ。

A「日本の経済再生のためには、若者を1人、神に生贄にすれば良い」

B「生贄で経済再生などばかげてる」

A「私のことが嫌いだからって、他人の言うことを否定するのはおかしい。もう少し他人の発言を受け入れる度量を持て」

もちろん実際にはAは「数学的に間違っているから」だったり「合理的・論理的に筋道の立っていない意見だから」だったりで否定されているに過ぎない。なのに、否定の理由を「好き嫌い」に矮小化し、Bが偏狭な理由で自分の意見を否定していると対立軸をすり替えている。

 

今、首相の「こんな人たち」を論って非難する人が多いが、これも対立軸の矮小化でありすり替えだと言って過言ではない。

 

 

headlines.yahoo.co.jp

 江川さんの指摘する通り、確かに安倍総理は、周囲を敵と味方に分けて物を考えがちというのはあるかもしれない。

しかし、江川さんにせよ、他の批判者にせよ、「自分や自民党を支持しないからって、『こんな人たち』と敵認定するのはおかしい」と、対立軸を「支持政党」だと言い張っている。「自分を支持する有権者・国民」と「自分を支持しない有権者・国民」を対立軸だとしている。

 

安倍総理の発言を「国民軽視だ」と評するのは、そういう対立軸を設定しているからだ。

 

しかし、実際に総理の発言を見れば、その対立軸の設定は恣意的な矮小化だと言わざるを得ない。

安倍首相「建設的な議論をしていきたいんです。皆さん、あのように人の主張の訴える場所にきて、演説の邪魔にするような行為を私たち自民党は絶対にしません。私たちはしっかりと政策をまじめに訴えていきたいんです。憎悪からは何も生まれない。相手を誹謗中傷したって皆さん何も生まれないんです。こんな人たちに皆さん、私たちは負けるわけにはいかない、都政を任せるわけにはいかないじゃありませんか」

  

この安倍さんの発言を読めば「私たち」と「あの人たち」を分ける対立軸は

  • 「人の主張の訴える場所にきて、演説の邪魔にするような行為」をするかどうか
  • 「政策をまじめに訴えていく」かどうか
  • 「憎悪や誹謗中傷を手段として用いる」かどうか

であることは明らかだ。要は「民主主義や言論の自由、政治活動の自由を守る側か、破壊する側か」が真の対立軸だ。

 

「いやいや、安倍の本音は自分を支持するかどうかだ」と言う人もいるだろう。それを頭ごなしには否定はしない。だが、「言葉とは異なる本音がある」と主張するのであれば、それを立証する責任はそういう主張をする側にある。その立証ができないのであれば、あくまで「私の個人的見解だが」に留めるべきであろう。

 

安倍総理の日頃の言動から、今回も、自分を支持/自分を非指示で分けていた可能性は否定できない」くらいなことは言えるかもしれないと個人的には思うが、でもそれも所詮は「推測・見解」であって、今回そういう意図であったことの「証明」にはならない。

 

そして「こんな人たちでも国民だ」という点も、「民主主義や言論の自由、政治活動の自由」という日本国の価値観の根幹に否定するようなことをしておいて、どこの国民だと言いたい。ある国家の基本ルールは否定するが、国民としての立場は行使したい、というのは虫の良い話だ。

 

だいたい自分達は「安倍を監獄に」とか「安倍に死を」くらいなことを言っておきながら「こんな人たち」って言われたくらいで被害者気取りとか、ちゃんちゃらおかしい(笑)。

 

ちなみに、江川さんは上記のブログで「ユーモアで笑い飛ばすくらいの余裕を持て」と言っているが、だったらご自分も「『憎悪からは何も生まれない』というけど、『こんな人たち』って言葉には、かなりの憎悪がこもってますよねぇ」と皮肉を言う余裕を持てば良かったのではないだろうか。

本当に「安倍自民が負けた」のか?

今回の都議選を受けて「安倍自民の驕りが生んだ結果だ」的に、今回の自民の敗北を「安倍批判・政権批判の結果」いう論調の野党・マスコミが多いけど、本当にそうなのだろうか。

また、当の自民都議からも「国政の人達のせいで負けた」みたいな声が聞こえるが、本当にそうなんだろうか?

 

現実は、単に「自民都議団への不信任」というだけじゃないのかと思うのだが。別に「安倍政権に不信があるから」ではなく(不信はあるかもしれないが、それと都議選の結果は関係ないという意味)、まして「国会野党が支持されたから」ということでもなく。

 

仮に安倍政権への批判票を入れ、あるいは野党への支持票を入れるということであれば、共産党民進党はもっと議席数を伸ばして良いはずだ。でも現実は全く異なる。

 

それより単に、「都民ファースト(というより小池知事)の政策手腕に期待するから」とか「自民都議団の横柄な態度が気に食わない」とか、単純に都政観点での理由の方が大きいのではないだろうか?

 

少なくとも、「国政観点」か「都政観点」かという詳細な分析もしないまま、「安倍批判の結果だ」と決めつけるのは、単に現実を自分達の願望の型にはめて言い張っているだけに過ぎないだろう。まずは詳細な分析をして然るべき根拠を見つけて判定するのが正しい考え方だ。

 

とは言え、反安倍連合(野党・マスコミなど)が、「正しい考え方」をしなきゃいけない義理はないと言えばそうだし、事実なんてどうでも良いから、とにかく安倍を叩ければ満足…で良いのかもしれない(それは情けないくらい卑しい生き方だと個人的には思うけど)

 

また自民都議団も「自分達が信用がないから負けた」というより「国政の人達のミスで負けた」ということにした方が気分がいいだろう。

 

そう考えると、「安倍政権に逆風が吹いたから負けた」は検証を要するにしても、「負けたことで安倍政権に逆風が吹く」というのは正しそうだ。

 

そういうのに踊らされる姿勢が、果たして回りまわって自分達に何をもたらすのか、良く考えなきゃいけないところだが。