ニュース観察

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「島根に落ちても意味ない」発言の問題は、敢えて言えば「平和ボケ」

「島根に落ちても意味ない」という発言が問題になっている。が、発言者よりも、相変わらずのマスコミの馬鹿っぷりが笑える状況である(笑)。マスコミ自体も、この発言の何が問題なのか理解していないからだ。

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基本的に私は竹下氏の発言が問題だとは一切思っていない。

竹下氏の言うように、一般的に軍事攻撃の目標としては、軍関係の施設であるとか、大都市とかを狙った方が効果が高い。その意味で竹下氏の発言は、至極普通で真っ当だ。

 

ただ「敢えて」問題点を挙げるなら、若干「平和ボケ」とは言えるかもしれない。なぜなら、島根にも軍事攻撃の目標に成り得る理由があるからだ。

 

考えてみるがいい。北朝鮮は、軍事施設もない、都市でもない「海」にミサイルを落として、軍事的脅迫の成果を得ているではないか。つまり「一見、何もない場所」が、軍事的脅迫のターゲットになることはあるのだ。

 

仮に、日本の軍事施設や都市にミサイルを落とせば、その時点で即戦争になる。北朝鮮が狙う「脅迫」のフェーズを一気に飛び越え、自国に攻撃が迫るのは確実だ。

だとすれば「次は都市や軍事施設を狙うぞ」「我々はいつでもそこにミサイルを落とせるぞ」という示威行為のため、島根を狙うというストーリーは特に荒唐無稽でもないだろう。

 

もちろん島根でも人のいる場所を狙えば、日米が戦争を選択することはあるかもしれない。だが無人島ならどうか。北朝鮮が「海」を使った脅迫の効き目に限界を感じた場合、例えば島根県無人島をピンポイントで狙うという作戦を取ることは想定しておくべきだ。北朝鮮からすれば、「我々はピンポイントで島を狙える攻撃精度を持っている」「次は日本の都市かもしれない」という強迫が使えるからだ。

 

ということで、竹下氏の見解は「甘い」「平和ボケ」だという非難は有り得る。だが、竹下氏の見解だって一つの妥当な意見であり「問題発言」というようなものでもない。

 

そもそも、当初報じた読売新聞に至っては「都市部へのミサイル落下を容認したかのような発言で問題」とか書いていたようだ(爆笑)。この発言のどこをどう曲解したら、そのように受け取れるのか。日本人ではない人間が記事を書いているなら仕方がないが、もし日本人なら幼稚園から国語の勉強をやりなおした方がいい(笑)。

 

ちなみに、ついでに言えば、これって「島根みたいなショボい県にミサイルを撃ち込む価値もない」って言ってるようなものなので、島根の人たちにそれを言って大丈夫なのかって部分もあるが、それは別問題(笑)。

牛乳石鹸のCMに反発する人は、イジメられている子も見捨てる子育てをするのだろう

話題になっている牛乳石鹸のCM。

反発している人がいるとのことだが、そういう人達が親になったら、「自分さえ幸せであれば良く、周囲の不幸は平然と見逃して良し」とする子育てをするのだろう(笑)。

 

今回、主人公は、敢えて自分の家族を待たせて、傷ついた部下(仲間)を慰めるという道を選んだ。それを批判するということは「仲間の不幸」は「家族の幸せ」と比べて、常に優先順位を低く扱わなければいけないと子供に教えるに等しい。

当然子供は、仲間の不幸(例えばイジメとか)を平然と無視して、自己の幸せのみを優先するような子供に育つことだろうさ(笑)。

 

ただ、問題の本質はそこではない。

 

物事の「正しさ」なんて、唯一に決められるものではない。

そもそも「正しさ」なんて、実は事前には分からず、後から見返して分かるものかもしれない。

挙句、事前に「正しさ」が分かっていたところで、なかなかその通りに行動できないのが人間というものだ。

 

確かに今回の主人公の「仲間を優先する」という選択が、絶対的に正しかったわけではない。かと言って、絶対的に間違っていたわけでもないだろう。子供も、自分よりも仲間を思った父親を、将来誇りに思う日も来るかもしれない。

 

それを自分の価値観にのみ照らし合わせて「正しくない」とヒステリックに喚くことに、何の意味があるだろうか?

 

なかなか見通せない「正しさ」、そして無数にある「正しさ」の中から、人は日々選択を重ねるしかない。だけど選択してみたところで、それが本当に「正しかったか」と自問し悶々とするばかりだ。下手をすると「間違っている」と気づいてしまうこともある。

 

そんな不器用な毎日を「間違っている!!」とヒステリックに叫ぶのではなく、「最善は尽くした」と許そう…というのが、牛乳石鹸のCMの意図であろう。その「寛容さ」が「洗い流そう」というキャッチコピーが象徴するところなのではないか。まさに現代に流れる「絶対的正しさがあるという妄想」や「正しさのみ信奉する姿勢」「誤りに対する不寛容」に対するアンチテーゼということだ。

 

その意味では、CMやCMの描く世界に対する不寛容な反応は、制作者側としては「そういう態度こそが、問題なんだよ」という気持ちだろう。

 

ポリティカルコレクトネスへの懐疑という点では、この方の意見が鋭い(というか、この方はいつも鋭くて勉強になる意見を書かれる大先輩だ)

fujipon.hatenablog.com

また、この方の意見も「男性像についての不寛容」という点での指摘はするどい。最後の段落で、不寛容な見解に堕しているのが残念だが。批判が飛び火するのを恐れて日和ったのか、そもそも実は筆者も不寛容なのか、分からないけれども。

wezz-y.com

女性に対しては「女は家を守るべきだ」なんて言ったら批判されるし、逆に「女も男と同等に働け」と言っても多様性を盾に批判される。が、男性に関しては「今、正しいとされる男性像を演じることが正しいのか」と疑問を呈しただけで叩かれる。ヒステリックで異常だ。

 

繰り返すが、正しい父親像なんて一つではない。昔の父親像は今の父親像からしたら「間違い」かもしれないが、別にそれで尊敬されてないわけでもない。子供に迎合して甘やかすことが正しい子育てでもないだろう。「約束を破ることは正しくないけれど、仲間を守ることは正しい」という観点もあるかもしれない。

 

絶対的唯一の正しさがあるなんて妄想を振りかざし、それに合わないものを否定する不寛容を止めよう。そんな意欲的なCMを批判する人は、牛乳石鹸に洗い流してもらうがいい。

都民ファーストのアンケート回答拒否には一定の合理性はある

毎日新聞のアンケートに対して、都民ファーストの会が事実上の回答拒否をした、しかも党上層部からの指示が見られる」というニュースが話題になっている。このタイトルだけ見ると「情報公開といいながら、自由に発言できる雰囲気がないのか」と判断してしまうが、果たしてそうだろうか?

https://mainichi.jp/articles/20170806/k00/00m/040/132000c

記事の内容を読むと、回答拒否となった質問は「安倍内閣の評価」や「憲法改正の是非」など、国政に関するもののようだ。

 

しかし、都民ファーストは急ごしらえの新党であり、しかも地方政治を担うために集められた人達だ。現状の党の立ち位置を考えれば、議員の「都政に関する意思統一」は必要だろうが、「国政に関する意思統一」は優先順位は低い。党を急ごしらえする中で、その意思統一が後回しにされても、特に不思議はない。

 

その状況で、国政アンケートに自由に回答したらどうなるか。当然、都民ファーストの候補の回答は、見事にバラバラになる。すると、毎日新聞のようなクソマスコミは、こう書くに決まってる。「都民ファーストは意見の異なる者の寄せ集め。既に内部の意思統一は崩壊」などと(笑)。そして、けして「都民ファーストは(現状では)地方議会の政党だから、国政の意見が分かれていても支障はない」とは書かないのだ。

 

結局、世の中に「自由に発言できない雰囲気」を作っているのは、発言を歪曲して報道する毎日・朝日といったクソマスコミの存在も一つの原因なのである。けして政府が~とかある党の方針が~とかだけではないのだ。自分の発言を「歪曲し揚げ足取りをしよう」と手ぐすねを引いている相手と会話などできるわけがない。

 

もちろん、全く問題がないわけではない。

都民ファーストの中で、比較的自由に発言し発信力もある元「かがやけ~」の議員たちが党内で干されている状況もある。

また「回答拒否」に合理性はあるにしても、それを各議員が自発的に発想しているのではなく、党上層部から「こうするのがベストだよ」と教えられて行動している点も問題だ。ポスターや選挙公報でも問題になったが、自分の意見・独自性を持たず、ただ党からの資料をコピペするだけの自立意思のない議員も情けない限りだ。

 

その意味で、都民ファーストには期待できない感は満載なのだけど、それ以上に、存在が社会の害悪である毎日新聞のアンケートでは、仕方のないことだとも言えよう。

灘校の歴史教科書問題は、単なる同族嫌悪に過ぎない

以下のようなツイートが話題になっている。

twitter.com

確かに圧力としては不当であり、それに戦う校長は立派だ。だが、書いてある内容が、賛美する程立派だろうか?

この問題を簡単に言えば、「慰安婦問題で韓国の主張に迎合するような左翼的色合いの教科書を採択したら、右翼勢力から攻撃されたから戦った」ということ。これは無条件で立派なのだが、問題はその後だ。

歴史家の保坂正康氏の『昭和史のかたち』( 岩波新書) を読んだ。その第二章は「昭和史と正方形̶ ̶ 日本型ファシズムの原型̶ ̶ 」というタイトルで、要約すると次のようなことである。

ファシズムの権力構造はこの正方形の枠内に、国民をなんとしても閉じこめてここから出さないように試みる。そして国家は四つの各辺に、「情報の一元化」「教育の国家主義化」「弾圧立法の制定と拡大解釈」「官民挙げての暴力」を置いて固めていく。そうすると国民は檻に入ったような状態になる。国家は四辺をさらに小さくして、その正方形の面積をより狭くしていこうと試みるのである。

保坂正康氏の論評を引き合いに、現代の日本政府や右翼勢力日本会議も含む)が、国民をコントロールしようとしているのではないかと問題提起する。

 

いやいや、ちょっと待ちなさいって(笑)。

日本政府や右翼のような一部勢力がそれをできるのであれば、他国の政府や左翼勢力だって、同じことをできる可能性はあるよね?

どうも灘校の校長は、そこまで頭が回らなかったのか、あるいは意図的に無視をしているのか、だ。

 

この問題で右翼勢力がやっていることは、右翼勢力が普段批判している左翼勢力の行動と何も変わらない。徒党を組んで騒乱を起こし、自分と異なる主張をすることすら潰そうとする。一橋大学の学園祭で、百田尚樹氏の講演会が中止になった問題があったが、あれも左翼的な人たちの騒乱的嫌がらせが原因とみられている。

自分が誤りと思う見解に対して、相手にその見解をしゃべらせたうえで、反対の見解を主張するのは良い。だが最初から相手に見解をしゃべらせないようにするのは、ある種の暴力による支配だ。結局、右翼勢力も左翼勢力も、やっていることは同レベルなのだ。

 

同様に、この校長が指摘する「国家のファシズム化」だって、右も左も似たようなものだよね、と指摘しなければ偏向したチープな見解と言われても仕方があるまい。

 

「情報の一元化」は、左翼系マスコミの「報道しない自由」を都合よく行使する姿勢にも表れている。校長氏は「政府による新聞やテレビ放送への圧力が顕在的な問題となっている」しか見えていないようだが。

「教育の国家主義化」だって、「左翼的教科書は、中国・韓国が教えたい歴史観を刷り込むもの」と捉えるのであれば一種の「外国による」国家主義化だ。校長氏は「政治主導の教育改革が強引に進められている中、今回のように学校教育に対して有形無形の圧力がかかっている」としか見ていないようだが。

「弾圧立法の制定と拡大解釈」という点では、さすがに外国勢力が都合よく日本の法律を制定することはできないにしても、「外国勢力に都合の悪い法律の成立を妨害する」という形で影響力を行使することはできる。校長氏は「安保法制に関する憲法の拡大解釈が行われるとともに緊急事態法という治安維持法にも似た法律が取り沙汰されている」としか見れていないようだが。

「官民挙げての暴力」については上に指摘した通りで、ヘイトスピーチや騒乱による威力誇示で、異論者を委縮させようとしているのは右も左も同じだ。

 

どうも灘校の校長氏は「政府権力による情報弾圧」しか頭にないようだが、こうしてみると「マスコミによる情報弾圧」や、その背後にある「外国勢力による情報弾圧」だって同じように見え隠れしている。

 

この問題を正しく認識するのであれば、政府や右翼勢力がどうこうではなく、「我々は、様々な勢力の思惑に歪められた情報戦の中にいる」と考えるべきなのだ。それが「書いてある内容が、賛美する程立派だろうか?」「チープな見解」と評価する理由だ。

 

ちなみに教科書については、例え左翼的であろうと、検定を通った教科書を採択するのに問題はない。その教材を使ったからって、左翼的な教育が為されると決まるわけでもないし、左翼的な教育をされたからって生徒がそれに染まるわけでもない。

だいたい、こういう高偏差値校の生徒というのは、教師の言うことを疑ってかかるのが好きなのだ(だから高偏差値にもなるし、エリートにもなる)。だから本物の灘校OBであれば「左翼的な教育をしたら、生徒が左翼的になるだろ」なんて言わないし、そんな主張は鼻で笑うだろう(笑)。

今頃、灘校の生徒は、この校長が英雄のように扱われるのを、鼻で笑っているかもしれない。

マスコミはテロリストとして滅ぼされる道を選ぶのか、それとも日本が壊滅するか

収束しそうで収束しない馬鹿な加計学園の問題。

マスコミが必死で火をつけて回っている。そして馬鹿な民衆(民衆のうち馬鹿な連中の意味)が、未だに踊らされている。

加計学園ありきの安倍首相が疑念を生んでいる」なのではなく、「疑念ありきの野党・マスコミが疑念を捏造している」が真理であることに、いい加減気づいて欲しい。

 

snjpn.net

 

まだ野党がやるのは分からないでもない。だが、マスコミが疑惑を捏造し、世論を操作し、社会を支配することを許したら、日本は絶対に暗黒の時代に突入する。

 

マスコミは選挙などで民衆の信託を得ているわけでもない。ごく少数の人の思惑で動かせる組織だ。ある意味、この世で一番の独裁権力がマスコミであることを、我々はまず強く心に刻むべきだ。政治家の独裁は我々が選挙で何とかできる。しかしマスコミの独裁は、我々が賢くならなければ回避できない。

 

マスコミの独裁と、それに踊らされる愚かな民衆が、世の中を狂わせた時代が現実にあった。それが太平洋戦争の時代だ。八幡和郎氏が鋭くそれを指摘している。

headlines.yahoo.co.jp

太平洋戦争は「一部軍部の暴走が原因」ということにされているが、現実はそうではない。「一部軍部」を、朝日新聞をはじめとするマスコミが協力にバックアップし、戦意を煽り、それに踊らされた馬鹿民衆がますますマスコミと軍部に権力を与えたから…というのが正しい。その中で朝日新聞は大幅に部数を伸ばした。

 

以前にも書いた通り、安倍総理は意見の分かれる問題、今まで政治家たちが逃げ回っていた問題に、果敢に取り組んでいる。その心意気は評価されて良いとは思うが、安倍総理の意見・見解まですべて支持するべきというものでもない。当然、安倍総理を信用できない人がいるのは自然なことだ。

 

だが、だからといって、ここでマスコミの独裁に手を貸してしまえば、日本は間違いなく破滅する。マスコミが自分達に都合の良い人間、悪い人間を選別し、都合の良い人間を英雄に祭り上げ、都合の悪い人間を消しにかかる。これはまさに、テロリストの方法論と同じだ。爆弾や銃ではなく、文字を弾にしたテロの中に、我々は存在しているのだ。

 

加計学園の問題は、マスコミという言論テロリストから、正義を守る戦いだと言っていい。全ての問題で安倍総理が正しい、マスコミが間違っている等と言うつもりはない。安倍総理を支持しなくても良い。しかし加計学園の問題に限って言えば、これは100%絶対にマスコミのテロだ。

 

安倍総理が信用できないからと言って、「敵の敵は味方」とテロリストを支持したら、後に困るのは我々自身である。憲法の問題にせよ、経済の問題にせよ、安全保障の問題にせよ、支持しない部分があるなら、正々堂々と「不支持」を表明して戦えば良い。テロに加担してはダメだ。

 

そして、仮にマスコミのテロが成功したとして、後に訪れる時代は、けしてマスコミの安泰を約束はしないだろう。テロに支援されてできた政権など、マスコミが不要となれば、マスコミをテロリストとして滅ぼしにかかるのは目に見えている。

 

かと言って、このようなテロを続けて、安倍総理が勝ったとしたら、安倍総理だってマスコミをテロリストとして潰しかねない。というか安倍総理が何かする以前に、もはや民衆はマスコミを信用せず、マスコミを社会的に抹殺する状況だろう。

 

こんな疑惑の捏造によるテロを続けたところで、マスコミにも何も良いことはないのだ。

 

マスコミはテロリストとして滅ぼされる道を選ぶのか。それとも日本全体として壊滅するか。それを防げるかどうかは、マスコミの、そして我々全員の知性と良識にかかっている。

まだやってるのか毎日馬鹿新聞

まだしつこく毎日新聞が馬鹿を振りまいてる。

 

こんなもの、突然決まるわけじゃなし、数か月前に業界団体に「こんな方向で行くので理解してくれ」ってリーク的な打診が内々にあっても不思議はない。むしろ日本じゃそれが普通だ。

 

で、この毎日馬鹿新聞は、そういう打診をしなかったらしなかったで「業界団体に一切の事前の話もないまま話が決まるのは不自然だ。密室政治で怪しい」とか言い出すんだよ。

 

ってか、ついさっきまで「業界団体に何の相談もなく決まったから怪しい」的なプロットで政権を責めてたんじゃないのか? 自分で自分の論拠を潰してどうする。

ホント、毎日新聞は反社会勢力だな。一刻も早く潰して欲しい。

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「不謹慎!!」社会が、世の中を窮屈にする

このドッキリを実際にみたわけではないが、コレ、ここまで目くじらを立てることだろうか?

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少なくとも「これだけ冤罪が問題になっている」ということを根拠にするのであれば、逆に、今回のドッキリは賞賛されなくてはならないはずだ。

「誰もが濡れ衣を着せられるリスクを背負っている」からこそ、その時に人がどう行動してしまうのか見るというのは、人間を知り、己を知る上で、非常に役立つ。つまり強い社会的な意義を持つではないか。それは「万引きを目撃した」というシチュエーションでは、絶対に理解することができない。

確かに、笑える内容ではなかったかもしれないし、不快になる部分もあるとは思うが、ドッキリに「人間の本質をえぐりだす」という価値を見出すのであれば、十分アリではないかと思うが。

 

どうも最近は「あれはケシカラン、これもダメ、こっちは不快だ」と、何に関しても文句をつけるのが流行りのようになっている。しかも、意見を表明するだけなら良いのだが、その意見を周囲に認めさせようという努力に走る人が多すぎる気がする。それが、社会の多様性を失わせ、ますます硬直した社会を生み出す原因になっているというのに。